嘔吐

作家になりたい統合失調症の女が色々考えるブログ

自殺率10%

統合失調症の自殺率はおよそ10%らしい。(ウィキペディア参照)

時々、むしょうに死にたい時がある。
一人きりで過ごす夜がつらく感じる夜がある。
そんな夜には、デパスワイパックスをワンシートずつ飲み下すことで、なんとか心の安寧を手に入れている。
だが、これは大分身体に悪い。わたしはODすることをやめたい。けれど、やめられない。
もはや薬に頼らないと生きていけない人間になってしまったのである。

どうしてこんなことになってしまったんだろう。
統合失調症でなければ、今頃きちんと働いてお金をもらって、普通の生活ができたのだろう。
だが、今のわたしにそれはできない。尋常ではない量の薬を飲みながら、毎日不安感と戦っている。

なにがそんなにつらいのだろう。
なにがそんなに不安なのだろう。
自分のことなのに、自分にもわからない。
昨晩は、本当にやばかった。
今ならマンションから飛び降りて死ぬことができるのではないかと真剣に思った。
わたしという無益で無駄な人間が今でものうのうと生きていることに、酷く罪悪感を覚えた。
このメンヘラスイッチはいつ入るかわからない。とにかく、昨日の晩のわたしは、泣きながら眠った。生きててごめんなさい、神様。そう思いながら。

わたしが自殺したら世の中はどうなるのだろうか。
両親はわたしの死によって涙を流すのだろうか。弟は。友人は。
死んだらそこで人生は終わりだ。わたしは輪廻を信じていない。わたしが死んだら、わたしの人生も終わりだ。二度とわたしという人間ではこの世には現れない。
わたしには夢がある。まだ死にたくない。夢を叶えて、それでも死にたければ死のう。そう思っている。
今のわたしが生きているのは、夢のおかげである。
この先何年でも、つらくても、生きていこうと思えるのは、その夢を絶対に叶えたいからである。
まだ死ねない。どれだけ死にたいと思っても、死にたくないと思っている。
だが、それでも、わたしはいずれ自ら死を選ぶのだろうなと思う。
わたしの死因は自殺と決めている。わたしは自ら死を選ぶ。いつの日か、必ず。

わたしが死んでも、世の中はなにもかわらない。
統失患者の自殺率10%にわたしも組み込まれるだけだ。わたしの死は、ただの数値でしかない。
無意味な人生だったと。無益な人生だったと。楽しいこともあったけれど、苦しい夜のほうが多かったと思いながら、絶望に至る病によって死んでいくのだろう。そんな未来が目に見える。
わたしは、わたしを生へと縛り付けるために、本を読んで、文章を書く。
七年。七年は生きよう。それでもだめだったら、死のう。
そんなことを思いながら、わたしは今日も読書に励むのである。

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なぜ「ファッションメンヘラ」は嫌われるのか?

最近のツイッターメンヘラ界隈では、「ファッションメンヘラマジうぜえ」といった声が多く見られるように感じる。
「ファッションメンヘラ」とは、その名の通り、メンヘラではないにもかかわらずメンヘラを名乗って、シャーペンで引っ掻いたような傷をツイートしては「マジ無理。もう死にたい。誰か殺してよ」などとツイートしている存在のことである。(多分)
彼らはガチモンのメンヘラからは、酷く毛嫌いされている。
わたしも一時期、ファッションメンヘラが気に入らなかった。お前たちみたいなファッションメンヘラがいるせいで、メンヘラという存在に世間様から誤解を受けるのだ、と思っていた。
だが、今となってはもう、どうでもよくなってしまった。どれだけファッションメンヘラを毛嫌いしたとしても、自分が統合失調症である事実はどうしようもないからだ。
余計なことに体力を使いたくなかったわたしは、ファッションメンヘラについて考えることをやめた。

だが、先日、ファッションメンヘラについて物申している人がTLにいた。
わたしは、以前とは逆の疑問を抱いた。
なぜファッションメンヘラは嫌われるのか?
ガチモンのメンヘラたちは、ファッションメンヘラの何が気に入らないのか?
わたしなりにここで少し考えてみることにする。

まず、ファッションメンヘラが嫌われる理由のひとつに、メンヘラを名乗ることによって承認欲求を満たそうとしようとすることが挙げられる。
往往にして、ファッションメンヘラはかまってちゃんである。加工に加工にを重ねた自撮りを撮っては、「ああ、あたしまじブス・・・死にたい・・・誰かもう殺してよ・・・」などとツイートするあいつらである。
しかし、顔がかわいいだけに(加工のおかげで)、彼女たちをフォローしている男性フォロワーから「そんなことないよ!」「かわいいよ!」「死なないで!」などとリプライが飛ばされ、彼女たちの自己承認欲求は満たされるわけである。
だが、それはメンヘラ界隈でも同じではないか?
ガチモンのメンヘラの大半はかまってちゃんだし、自撮りを晒す人間もいる。
お前、人のこと言えた義理じゃなくね? とわたしは思ってしまうのである。
まさに同じ穴のムジナというやつである。

ふたつ目の理由に、世間様から病気についての誤解を招くから、というものがある。
ガチメンヘラたちは、自分たちと同じような苦しみを味わってもいないにもかかわらず、あたかも苦しんでいるようなツイートを連発するファッションメンヘラのことが許せないのである。
でも、側から見たらどちらの違いも大したことがないのが現状だ。
ファッションメンヘラが「つらい」と言っても、ガチメンヘラが「つらい」と言っても、見ている側からしたら同じなのである。それが一層気に入らないのではないかと思う。

みっつ目の理由に、可愛いから、というのが挙げられる。
ファッションメンヘラはかまってほしくて、メンヘラを気取る。注目を集めたがる。そのためには、可愛くないといけないのである。
残念ながら、ガチメンヘラ界隈にいるのは美男美女ばかりではない。それなのに、ファッションメンヘラが加工に加工を重ねた超絶美少女写真と共に「死にたい」とツイートすれば、そこに人は集まっていく。 ガチメンヘラは、「あんなファッションメンヘラなのになんであんなに構われてんだよ、俺わたしの方がもっと辛いんだよ慰めて欲しいんだよかまってほしいんだよ!」と爆発する。
世の中、結局は顔だ。顔が可愛ければ割となんでも許されてしまう世の中なのだ。これはこの世のカルマであるため、どうしようもない。

よっつ目の理由に、病気を騙ってるのがムカつくから、というのが挙げられる。
たとえば、うつ病の人のがうつ病を騙るファションメンヘラを見ると、腹を立てるわけである。
俺わたしは本当に苦しんでいるのに、お前元気そうじゃねえか。なにがうつ病だよ馬鹿野郎、と思うわけである。
幸い、わたしは統失なので、ファッション統失という存在は希少種であるのでエンカウントする確率は低く安心なのだが、うつ病人格障害適応障害らへんの病気を患っているメンヘラは大変だなあ、と思う。

以上、よっつ理由を挙げてみたが、これはあくまでわたしがツイッターを見ていて感じたことであり、これが真実というわけでもない。
あくまで私見として、この記事を書いた。
わたしは、今現在、ファションメンヘラのことを嫌っていない。どうでもいいからだ。
メンヘラを騙り、かまってもらおうとするのも一つの承認欲求なのではないだろうか。
ファションメンヘラもガチメンヘラも結局はかまってちゃんばかりなので、その実両者には大した違いが見られないようにわたしには見えるのだ。
わたしはあまりかまってほしくないタイプなので、かまってちゃんをする人間の気持ちはよくわからない。
しかし、ファションメンヘラでもガチメンヘラでもツイッターをエンジョイできているならそれでいいんじゃないかと思う。
どちらも同じ、かまってちゃんだからである。

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瀉血中の喜劇

わたしはメンヘラである。
統合失調症を患っており、どこからくるのかわからない強い不安や、時たま聞こえてくる幻聴を薬でどうにかしておさえこんでいる状態である。
わたしの不安感は相当に強い。今飲んでいる抗不安薬は4種類。デパスワイパックスリボトリールにヒベルナ糖衣錠。出せる抗不安薬はこれだけでマックスだ、これ以上は処方できない、というのが医師の診断だ。
これだけの薬を飲んでいても、わたしの不安感は消えない。
毎日を恐怖の中に過ごしている。メンヘラやめてえな。そう思いながら。

書いている人間がこんななので、どうしても記事が薄暗くなりがちだ。
統合失調症は治らない。寛解を待つしかない。けれど、どうしたって寛解する兆しはない。
だったら、もう、諦めて、メンヘラ街道を突っ走ることにした。
メンヘラというコンテンツを作り上げ、メンヘラ芸人になろうということだ。
内容は薄暗いかもしれないが、極力明るい文章を書くことにしたい。

前置きが長くなってしまった。
この記事のテーマは、タイトルを見てもらうとすぐにわかるだろう。
瀉血中の喜劇」ーーなるべく明るく書くので、よかったらこの先も読み進めてほしい。

わたしはメンヘラだ。
それも、愚かしいメンヘラだ。わたしは自傷行為をしているメンヘラなのだ。
それも、リストカットではない、瀉血だ。なぜリスカじゃないの?と聞かれれば、傷が残るのが嫌なのだとわたしは答えるだろう。
しかし、瀉血はそこまで痕が残らない。この点に魅力を感じて、わたしは瀉血を定期的にしている。
赤い血を見ると精神が落ち着くのは、メンヘラの共通認識なのだろうか。わたしも、赤い血を見ることで、心の安寧を得ている。

その日も、わたしは瀉血をしようと、いそいそと浴室で準備をしていた。
駆血帯にニードル16G。これさえあれば、瀉血ができる。
わたしは、「恋に落ちて〜Fall in Love〜」を聴きながら、腕に駆血帯を巻いた。痛いくらいにきつく肌を締め付けた。
そして、ニードルを腕に刺した。途端、溢れ出る血。わたしの精神は酷く高揚していた。
その時のわたしは、お酒も飲んでいたし、デパスワイパックスのODもしていたので、なおさらテンションが高かった。
わたしは調子に乗って、何回目かの「恋に落ちて」を聴きながら、鼻歌を歌っていた。
だが、わたしは異変に気づく。
身体が酷く寒いのだ。手の震えが出てきた。気のせいか、視界も狭まっているかのように感じる。

もしかして、これ、ヤバイんじゃない?

そう思ったわたしは、即座に携帯電話を手に取った。
そして、検索をかけまくった。瀉血で気分が悪くなった場合はどうすればいいか、何度も調べた。
わたしは完全に正気を失っていた。なにをするにもまず、腕に刺してあるニードルを抜けばいい話だ。だが、その時のわたしには、正常な判断ができなくなっていた。
どんなに検索しても、この身体の異常をどうにかしてくれるページはヒットしない。
いよいよ視界が暗くなってきた。

ヤバイ、死ぬ!!!!!

浴室は血まみれだ。その中に倒れ臥すわたし。完全に殺人現場である。
携帯電話から手を離し、わたしはそこでようやく針を抜けばいいことに気がついた。
わたしは大急ぎで針を抜き、朦朧とした視界の中で、鉄分を補給しようと浴室からふらふらと出ていき、10円玉を口に放り込んだ。鉄の味がした。
10円玉で鉄分を補給しようとするわたしは完全にキチガイだった。
10円玉は銅である。鉄ではない。そんなことにも気づかずに、わたしは一心不乱に10円玉を舐め続けていた。 10円玉を口の中に入れたまま、わたしは血まみれの浴室の後片付けに入った。
全ての後始末を終えて、わたしはソファーの上に倒れ臥した。限界だった。
そこで再認識した。

血液は、大事だ。

そんな当たり前のこともわからないなんて一体お前は何年生きてきたんだ、という話である。 ぐらぐらとする頭で、わたしは鉄分、鉄分、とうわ言を言っていた。
やがて帰ってきた父親に、その現場を押さえられ、もれなくニードルは全て取り上げられた。
それから数日は、ふらふらとしたまま過ごした。ひたすらにニラを食べ続けた。

わたしは、死ぬことは難しいことだと思っていた。
しかし、案外簡単なことかもしれないのかと、今回の一件で学んだ。
わたしはまだ死にたくないので、助かってよかったと思っている。病院にお世話にならずに済んでよかったと思う。
まあ、こんな風に自傷行為に及んでいることを医者にひた隠しにしているわたしは、これからも穏やかな統失患者としてしれっと医者に通おうと思っている。

その当日はエライ目にあったし、神を恨んだが(完全に自業自得である)、今となっては笑い話だ。
これからも瀉血をやめる意思はないし、また同じことをやらかすような気はしている。
でも、この一件でいかに血が大切なのかを思い知った。これからは、もっとうまくやろうと思っている。

最後に。
わたしが鉄分補給に舐め回した10円玉は、洗った後にしれっとスーパーで使った。
あの10円玉を使う人間には申し訳ないことをしたと思う。
すみませんでした。

今日の話も少ししておこうと思う。
今日のは医者の日だった。いつも通り診察を受けて、薬をもらって帰ってきた。
薬は減る兆しを見せない。今後、寛解するかも怪しいところだ。
まあ、その時はその時で、考えればいい。わたしは、血を抜き続けるという自殺の手法を学んだのだから、どうしようもなくなったら死ぬだけだ。
ああ、瀉血の話をしたら瀉血したくなってきた。明日にでもやろうか。
いい加減懲りろ。自分にそう言ってやりたい。 しかし、メンヘラは懲りないのである。
わたしとは、愚かな生き物なのである。
そんなわたしの、瀉血中の喜劇だった。

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わたしは健常者だ

わたしは健常者だ。

わたしは統合失調症という病を患っている。
幻聴、被害妄想、誇大妄想、自閉……様々な症状を起こしている。
実際、統合失調症が原因で障害者手帳をもらう人もいる。
だが、わたしにはどうしても、統合失調症患者が障害者であるという世の中の認識に疑問を持たざるにはいられないのだ。

わたしは統合失調症患者だ。
それは確かなことで、たくさんの薬を飲みながら毎日過ごしている。
会社も休職し、毎日ひっそり本を読んで暮らしている。
時々数少ない友人と遊んだり、一人でカラオケに行ったりもしている。

薬さえ飲んでいれば、わたしは健常者なのだ。
確かに、毎日希死念慮を抱かぬ時はない。
けれど、多少の希死念慮なんて健常者でも抱きうることだし、希死念慮があるからイコール障害者である、という定義は甚だ疑問だ。

周囲から「障害者手帳取ったら?」「入院したら?」「障害年金もらったら?」と言われたことがある。
でも、わたしはそんなものいらないと思っている。
だってわたしは健常者なのだ。誰がなんと言おうと健常者なのだ。
わたしはあくまで自分が健常者であると信じたい。

世の中は障害者に厳しい。
手帳を取った時点で人生の選択肢は限りなく絞られてしまう。
特にメンタル系なんかはそうだ。
一見なんの問題もないように見えて、それでも障害者枠で働くことになれば、健常者よりも薄給で働かされることになるだろう。
だからわたしは手帳を取るのが嫌なのだ。

信じたくない。自分が障害者だなんて。
わたしはどこまでも健康な精神でいたい。
元気な作家になって、印税生活をするためにも、病んだ自分はいらない。
認めない。統合失調症だから障害者だなんて言わせない。
わたしは健常者だ。
わたしは健常者だ。
わたしは健常者だ。
諦めきれない。受け入れられない。
自分が精神障害者であることが耐えられない。
周りに何を言われても、わたしは健常者でいたい。

わたしはもう誰にも迷惑をかけたくない。
わたしを病人だと思ってほしくない。
わたしは本を読んで、文を書いて、夢を叶えたい。

わたしは健常者だ。障害者ではない。
障害者だとは思わせないほど元気になるしかない。
いつになったら減薬できるのだろう。
いつになったら寛解できるのだろうか。
希死念慮は毎日止まらない。
それでもわたしは、健常者だ。
明日からも、わたしは健常者として生きていこうと思っている。

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「ハサミ男」

昨日、「ハサミ男」を読破したので、ここに感想をしたためておく。

大雑把なあらすじはこうだ。
連続殺人犯である「ハサミ男」――彼は新しい獲物を見つけ、慎重に殺害計画を立ててゆく。
しかし、それを実行しようと思った矢先に、彼は発見するのである。自分が殺そうと思っていた少女が、別の「ハサミ男」に殺された、その死体を―― 「ハサミ男」は、それが誰だか暴こうと、模倣犯を探す。 一体、模倣犯は誰なのか? 「ハサミ男」の行く末はいかなるものか?

ネタバレにならない程度に感想を書く。

正直言って、おもしろいかと言われれば、首を傾げるような内容だった。
叙述トリックというやつだろうか。しかし、無理があるように感じた。
この作品は、著者のデビュー作である。メフィスト賞を受賞したものだ。
恥ずかしながら、わたしの夢は作家である。なので、メフィスト賞を受賞するに至り、どれだけの水準で書いていれば受賞できるのかを確かめたくて手に取った本だった。
正直な話、ほっとした。しかし、まだまだ「ハサミ男」の著者には遠く及ばない。

ただ、今回の「ハサミ男」は、決しておもしろかったとは言えない内容だったように思う。
もちろんわたしの感性による感想なので、見る人から見れば面白い内容かもしれない。
一個人の意見として受け入れてほしい。決して批判をしたいわけではなく、率直な感想を述べたに過ぎないのだから。

次は宮部みゆきの短編集を読もうと思っている。
この短編集は、父親が「面白い」と言って貸してくれたものだ。
それと同時に、サルトルの「嘔吐」も読みたいと思っている。
読む本がたくさんあるのは幸せなことだ。
わたしはたくさんの本を読んで、たくさんの言葉を知りたい。
夢を叶えるためにも、まだまだ修行をしなければならない。

宮部みゆきは、一体どんな物語を書いたのだろうか。
今から読むのが楽しみだ。

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わたしは統合失調症である

今日からブログを書き始めることにした。
正確に言えば、以前もブログを書いていたので、ブログを書くことを再開することになるのだが、心機一転新しいブログを作り直した。
今日からまた、日々のことや思ったこと、読んだ本のこと、色々なことを書いていくつもりだ。

さて、最初の記事にはなにを書こうかと考えた時に、持病について書こうと考え付いた。
このブログを読むかもしれない誰かが、わたしの持病について知らなければ、わたしがなにを言いたいのかわからないのではないかと思ったからだ。
わたしの思考は、この持病が大きく関係している。
故に、わたしの持病について、診察から確定診断までのくだりを最初に書いておこうと思う。

わたしは社会人だ。新人として入った会社は、良くも悪くも昭和の体質の抜けないトップダウンの会社だった。
わたしは壊滅的に空気が読めなかった。誰とも仲良くしたいと思わなかった。上司にも直属の先輩にも、心を開くことができなかった。
なぜか? 怖かったからだ。
わたしという人間を知られることが怖かった。わたしのことを知って、そして裏で悪口を言われてるのではないかと思うと、誰にも胸の内を明かすことができなかった。

わたしは「もしかして、わたしは大人の発達障害ってやつではないか?」と思った。
仕事ができるわけでもなく、ミスをしては誰かに迷惑をかけてばかり。
これは普通ではないのではないかと、わたしは思った。
精神科に行く切っ掛けは、これだった。

初めて精神科に電話を入れる時には緊張した。なにを聞かれるのか。なにを言わねばならないのか。
そもそも、電話する段階に入って、一瞬そこで躊躇った。
わたしにとって、精神科とは未知の世界だった。
それでも、なけなしの勇気を振り絞って電話を入れた。初診の予約を取った。

病院に初めて訪れた時、室内は明るいにも関わらず、どこか鬱屈とした雰囲気を漂わせている空間に、わたしの足が竦んだ。
ここで発達障害の診断を受けるのか。わたしは怖々と、受付のお姉さんに保険証を渡した。
医師は、とてもいい人だった。わたしがなにに苦しんでいるのか、どんな未来を望んでいるのか、真剣に聞いてくれた。
初日は、スルピリド睡眠薬を処方され、一週間後にまた来てください、とのことでわたしは帰路についた。

それからは、スルピリドからなぞの漢方を処方され、およそ一か月が経った。
拭い去れない不安感。誰かから悪口を言われているというわたしの主張。明日になったら世界が瓦解しているのではないかという恐怖。わたしという宗教の盲信。
薬がルーランに変わった。調べてみると、統合失調症の治療薬だった。
わたしは酷く狼狽した。発達障害ではないでしょう、というのが医師の見たてだった。
ああ、なんだ。自分が単に仕事のできないグズのろまなだけかと思っていた。
それなのに、処方されたのは統合失調症の薬。
不安で、どうしようもなかった。統合失調症という病名だけは知っていたが、調べてみると、なるほど、わたしが抱えている症状と合致するなと思えた。
そんな病気に侵されているのかもしれない。そんな不安がむくむくと膨らんでいって、気がつけばわたしは医者から貰ったリボトリールを身体に流し込んでいた。

それから多分、二週間が経った頃だ。
医者はわたしに病名を与えた。予想通り、統合失調症だった。
わたしは絶望した。統合失調症とは、治らない病気である。寛解はできても、完治はしない。わたしは何かとんでもない呪いにかかったかのように、診察室の中で医者の言葉を気持ち半分に聞きながら、これからの人生を憂いていた。
わたしはもう健常者としては生きていけないのか。そんな気持ちでいっぱいだった。
けれど、憂いたことでどうにかなるものでもない。そんな諦念でわたしの胸中は満ちた。

職場にそのことを隠しながら働いていた最中の話である。
わたしは、コントミンの副作用で、職場で倒れた。とても働ける状態になかった。所謂アカシジアを引き起こしていたのだ。わたしは家へ強制送還された。
その時のわたしは、昼ご飯も夜ご飯も食べられず、空腹であるのになにも食べることができなかった。毎日ふらふらしていた。
そのこともあって、昨年12月から、今に至るまで会社を休職することになった。

以上が、今のわたしに繋がる過去の話である。
わたしは統合失調症だ。だが、わたしは健常者であることを諦めたくないと思っている。
いつかは会社に戻り、しっかりと働いて、金を貯めたい。
この歳になって夢を語るのは馬鹿らしいかもしれないが、夢がある。どうしても叶えたい夢が。
わたしは諦めたくない。夢を叶えることも、健常者で在り続けることも。

このブログは、そんなわたしの日々や感じたこと、思ったこと、読んだ本の感想等を書いていくブログにしようと思っている。
毎日更新できるかはわからないが、できるだけこまめに、更新したい。
このブログが、わたしというたったひとりの登場人物の物語になるように。

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