嘔吐

作家になりたい統合失調症の女が色々考えるブログ

「死にたい」という発作

死にたいわけじゃない。
まだまだ生きてやりたいことがたくさんある。
それでも、定期的に「死にたい」という発作がやってくるのである。

そもそもの話、わたしは人生に絶望している。
統合失調症という病ですと医者に言われた日から、ああもう治らないんだと思った記憶がある。
わたしは障害者なんだ。
統合失調症という病の障害者なんだ。
そして、寛解はすれど完治はしない病気であると。
そう知ったときから、普通の人間の輪の中に入ってなにかしようという考えは消えた。

わたしはキチガイなんだ。
薬が効いてないとき、感情のコントロールができない。
そういうときに「死にたい」がやってくる。
本当に死ぬとまずいので瀉血で済ませてるわけだが、瀉血でも二度ほど死ぬ思いをしている。
今まで措置入院にならなかったのが不思議なくらいである。

病状の改善も見られない。
最近は、食べ物に毒が入ってるのではないかという思いから誰かの手作りご飯が食べられなくなった。
不思議とお惣菜は食べられるのだが、人の手で作られた料理に手をつけるのが怖くなってしまった。
明後日は医者に行く日だが、こんなことを話してしまえばまた社会復帰が遠のいてしまう。
父親に相談したところ、そのことは言わないほうがいいと言われた。
しかし、わたしが実際に食事に毒を盛られていると思っているのは事実で、それを医者に隠してもいいのだろうかと迷う。
症状としてそういう念慮があるのだから、言うべきではないかと思う。
しかし、そんなことを医者に言えば……
わたしの社会復帰が遠のくのである。

何かしているときも、何もしていないときも、漠然と苦しいときがある。
「死にたいな」と思ってしまう。
でも実際に死にたくはないので腕に針を刺すだけの半端メンヘラになってしまっている。
これからも「死にたい」と思う度に腕に針を刺すのだろう。
滑稽すぎて笑うしかない。

生きていたい。
生きていたい。
しかし、世の中は苦しみだらけだ。
たとえいっとき症状が治まったとして、社会復帰したらまたぶり返す可能性だってある。
発作的に駅のホームから飛び降りるかもしれないし、マンションの最上階から身投げするかもしれない。
死ぬ間際に見る景色は一体どんなに綺麗なのだろうか。
このコンクリートだらけの世界で、死ぬ間際だからこそ、薄汚れたビルの壁や人々の残業によって映し出される夜景がいっとう美しく思えるのだろうか。
死ぬときは美しいものを見て死にたい。
最後に、自分がいた世界はこんなにも美しかったんだと感じて死にたい。

ここまで書いてきてなんなのだが、死にたいわけではない。
決して死にたくはない。ただ、死にたいという発作にいつまで耐えられるのかが問題なのである。
これまでに三度も自殺未遂をして、その度に人に迷惑をかけてきた。
迷惑をかける度に、わたしがいなくなればこの人たちは楽になるんだろうなあと思った。
死なねばいけないんだと、強く思った。
けれど、わたしはわがままな人間だからまだ死にたくない。
わたしの存在が他者にとってどれだけ不要な存在でも、疎ましい存在でも、わたしの生を否定する権利のある人間はいない。
たとえ誰に「死ね」と言われたところで、最終的に死ぬか死なないかの決断をするのは自分だ。
生死は常に自分が握っている。

明後日に医者へ行くが、社会復帰できるのだろうか。
ゴーサインは出るのだろうか。
数多の人が殺人犯に見えていて、食事には毒が入っていて、自分は虫ケラのような存在で、薬がないとただのキチガイで。
そんな状態で社会復帰できるのだろうか。
おそらくできない確率70%ほどだと思うので、もう少しニート期間が長引くかもしれない。
明けましておめでとうございますと同時に復帰になるかもしれない。
なんにせよ、ゴーサインを出すか否かは医者の決めることであってわたしが決めることではない。

発作的に死にたくなることもある。
むしょうに悲しくて泣いてしまう夜もある。
ちゃんと働いてお金を稼ぎたいと思う自分がいる。
でも身体が意思についていかない。

この発作があるうちは外に出るのは危険かもしれないとわたし自身感じている。
現に車と接触事故を起こしているわけなので、危ないなあと思う。
でも、それでも、働かねば人は生きていけないのである。
追っている夢もあるし、ここでくたばるわけにはいかない。

まとまりのない文章になってしまったが、とりあえず今の心境をぶちまけてみた。
わたしは愚かな虫ケラと同じだ。
でも、虫ケラは虫ケラらしく生きていこうと思っている。
いつの日か、「死にたい」と思わないで済むような自分になれたらいいなと思っている。

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