生きてます
更新に間が空いてしまいましたが生きてます。
死んだように毎日毎日生きています。
最近は何かをしたいという意欲が強く、ずっと文章を書いている。
1日でもはやく作家になりたいという思いで生きている。
今はまだ父の校閲に頼らなければまともな文章が書けないのだが、この一年でまともな文章を書けるようにいろいろと頑張るつもりだ。
ニートでもいいよ、とのことなので、親の脛をかじりながら生きていこうと思う。
話は変わるが、昨日(一昨日)の頭脳王はすごかった。
あんな天才たちがこの世にいるのが信じられなかった。
ああいう人々には、普通の人間がどう見えているのだろう。
バカでバカで仕方ないように見えてるんだろうか。
わたしも賢くなりたかった、と父親に零したら、「賢いよ、ただ勉強しないだけで」と言われたので、ずっとサボっていた英語の勉強をまた頑張ろうと思う。
病気の中でも、できることは何かしらあるはすだ。
未来の作家になれている自分のヴィジョンを描きながら、これからも生きていこうと思っている。
悲しくて仕方のない夜
悲しくてつらくて、一人泣いてしまう夜がある。
今も涙を流しながらこの文章を書いている。
どうしてこんなにも不安で、こんなにも悲しいのかわからない。
ただただ生きることが苦しくて、楽しいことももちろんあるけれど、今現在の気持ちとしては「死にたい」である。
なんの役にも立たないわたし。
掃除をすることもできなければ、食事を取ることもしないわたし。
家族からも疎まれてるんじゃないかと怯える毎日。
父さんだけはわたしの味方でいてほしい、でも裏切られたら?
裏切られたとき、わたしはどうする?
手首を切るか? 瀉血をするか? それともビルから飛び降りるか?
死ぬのか? 死ぬだけの勇気があるのか?
わたしは意気地なしだ。
きっとどんなにつらくても死ぬのが怖くて泣き言を言うだけだ。
いや、もしかしたら死ぬのかもしれない。それも、とてもばかばかしい理由で。
わたしの人生はお先真っ暗だ。
生きようと思えるだけの夢はある。
ただ、それが実現するまで生き延びられるかが問題なのだ。
悲しい。悲しい。悲しい。
なぜこんなにも悲しいのか本当にわからない。
いろんな感情がごちゃ混ぜになって、言葉に言い表せない。
時折こんな夜がある。
生きていていいのだろうか。死ぬべき人間なのではないか。
だれかに不快感や面倒を感じさせながらしか生きられないわたしはいなくなった方が、周りは楽になるんじゃないだろうか。
もちろん、こんなことを、たとえば父親に言えば、そんなことない、生きているだけで十分だ、と言ってくれるんだと思う。
でも、今は、その優しさすらつらく感じる。
わたしのために、父親は言いたいことを言わずにいる。
それがわかっているからこそ、罪悪感が拭えない。
悲しい。悲しい。悲しい。
健常者でないことが悲しい。障害者であることが悲しい。
健常者だったら、今頃どんな生活をしていたのだろう。
考えるだけで泣けてくる。
わたしが健常者だったら、周囲にこれだけ迷惑をかけることもなかっただろうに。
死ね、死ね、死んでしまえ。
そんな声が聞こえる。繰り返し、繰り返し、何度も、何度も。
生きるということはつらいことだ。
でも、いつかはこの人生は終わる。
それがどんな終わり方になるのかはわからない。
夢が破れたことに絶望して自ら死を選ぶのかもしれない。
衝動的に電車に飛び込んで死ぬのかもしれない。
もしかしたら、なんだかんだで生き続けて、こんな不安定な夜もあったなと笑い飛ばせる日が来るかもしれない。
未来のことは誰にもわからない。
息をしているだけで罪悪感に苛まれる。
だから、頑張らなければならない。
少しでも周囲の人間の邪魔にならないように。
定期的にくるこの希死念慮の発作は、寛解すればこなくなるのだろうか。
わからない。
けれど、わたしは今できることをやるしかない。
とりあえず、瀉血をしたら寝ようと思う。
こんな夜に、結局自傷行為をすることでしか感情を抑えられないあたりがメンヘラここに極めりといった具合だと我ながら思う。
いい夢が見られるといいな。
「エンタテイメントの作り方」貴志祐介
読み終えた。
この本は、全アマチュア小説書きに対する貴志祐介による指南本である。
内容は大変ためになった。
と、同時に、これまで父親に言われてきたことがまったく理解できてなかったことにも気がつけた。
「ようやく理解したか馬鹿娘」「殴ってやりたい」と笑いながら言われて、こっちも笑ってしまった。
改めて文章にして小説の書き方を教授していただけるのは非常にありがたい。
この本はわたしにとって一生手放すことのできない本になるだろう。
さて、明日(というか今日)も明後日も何も予定がないので、プロットを立てたり本を読んだりして過ごすつもりだ。
のんびりゆったり、自分のペースで今出来る限りのことをやっていこうと思う。
寛解とは?
あまりにも病状が変わらないので、最早どういった状態になれば寛解した、ということになるのかわからない。
相変わらず街中を歩く人間はみんな殺人鬼に見える。
デパスワイパックスのODもやめられない。
明日が来るのが怖くて眠れない夜もある。
気力がなくて何もできない時がある。
このままでは間違いなくヤバイのである。
わたしは病識があるだけ統失患者としては軽い統失患者なのだが、病識があるからこそ現状が苦しい。
文章を書く練習をしなければならない。
本を読まねばならない。
たまにはカラオケにも行きたい。
そんな気力がまったく起こらない。
このブログを書くのをサボってたのも、気力が湧かなかったからである。
どうすれば寛解するのだろう。
会社からは退職届をもらってきたので、ニート待った無しである。
一年間は傷病手当があるから生きていけるが、それからどうするのかまったく考えてない。
最善の道は、わたしが努力してさっさと夢を叶えることなのだが、この気力のわかなさではそれも危うい。
早く作家になって、胸を張って外を歩ける人間になりたい。
しかし、わたしはまだまだ未熟で、とても作家になれる段階ではない。
今年の抱負として「まともな物語を書けるようになる」「語彙力を増やす」があるのだが、このままではそれもできなさそうで、それが恐ろしいのだ。
相変わらず幻聴が聞こえる。
外に出るのは怖い。
出るときは必ずOD。
こんなデススパイラルの中で生きていくのは厳しい。
かと言って、今死にたいかと聞かれれば、死にたくないと答えられるので、以前よりは状態は安定しているのかもしれない。
夢追人として生きる決意をしたのだから、ここで折れるわけにはいかない。
会社を辞めることになって、わたしの「一般人」としての生き方は頓挫した。
けれど、それは同時に「夢追人」としての生き方のスタートでもある。
やるしかない。やるしかないのである。
たくさん本を読んで、たくさん文章を書くしかないのだ。
明日朝起きたら西尾維新にでもなっていたらいいのに、と思う毎日である。
「偽物語(上)」西尾維新
読み終えた。
今回の作品も実に軽快でさらさらと読める物語だった。
西尾維新の言葉遊びも健在で、その発想はどこから来るのか問い質したいくらいである。
何を読んでも面白い。こんなに素晴らしいことがあるだろうか。
下巻もあるので、早々に読み終えるつもりだ。
そんな西尾維新フリークなわたしであるが、西尾維新を読みまくっていたおかげか、文体が西尾維新に似てきた。
これは喜ばしいことである。
西尾維新の文体をパクるのは無理だ、と父親に言われたが、西尾維新を意識して書いた文章に、父からお褒めの言葉をいただけたのだ。
「西尾維新には遠く及ばないけど、今まで読んできた中ではまともである」と、父親に言われたのだ。
これまで文章を書いてきて、初めて父親からそんな言葉を聞いた。
思わず嬉し泣きをしてしまったほどである。
わたしは西尾維新が大好きだ。
これからも、西尾維新をパクりつつ、自分なりの文体を作っていこうと思っている。
「私の家では何も起こらない」恩田陸
読み終えた。
今回の話は一つの家をテーマにした物語だった。
文章修業で、一つのモチーフから物語を書く練習をしているが、さすがは恩田陸、わたしなぞ足元にも及ばぬ出来の良さで素晴らしいと思った。
とはいえ、内容がおもしろかったかと聞かれると、首を傾けざるをえない。
やはり恩田陸の最高傑作は「夢違」だと思うのだ。
なんにせよ、プロの作家が書く「一つのモチーフから物語を紡ぐ」のが見られてよかったと思っている。
200ページくらいしかない本なので、1時間弱で読み終えてしまった。
最近読書スピードが上がっている気がする。
この後は、読みかけの西尾維新を読もうと思っている。
まだまだ読めてない本が山積みになっている。
しっかり消化していかないとなあと思っている。