「ネコソギラジカル(中)」西尾維新
読み終えた。
まさかの展開に、開いた口が塞がらなかった。
これからどうなるんだろうか。
まだ下巻があるが、主人公とヒロインはどうなってしまうのだろうか。
続きが気になりすぎるので、早速下巻を読もうと思う。
短いが、早く続きを読みたいので記録だけしておく。
魔道具コターツには逆らえない
今日は祖母の家に行ってきた。
祖父が死んで、もう一年になる。
一人暮らしの祖母がさぞ寂しかろうという父親の計らいで、今日遊びに行ってきた。
祖母の料理は美味しかったし、会話も楽しかった。
時々わたしは、祖母のような人が母親だったらなあ、と思う。
毎日手料理を作ってくれて、相手に美味しいと言ってもらえれば嬉しくて仕方のないという表情をする祖母は、まさに理想の母親像である。
残念ながらわたしの実母は手料理をあまり作らない上に、わたしのご飯だけ買ってこないような少し残念な母親なので、なおさらそう思うのである。
ところでタイトルだが、今日は本を読むつもりで祖母の家へ行ってきた。
しかし、あまりにもこたつが温かすぎて睡魔に襲われまくり、当初の予定よりも本が読めなかった。
再来年、わたしは父と共に引っ越すのだが、その際こたつを買おうと思っている。
ところごどっこい、こたつなどという魔道具を買ってしまって、あっという間に自堕落になる自分の姿が目に浮かぶ。
しかし本当にこたつはいいものだ。
暖房をつけてなくても十分に温かい。
はやく引っ越して、こたつ買いたいな、と思った1日だった。
将来どうなるかわからないが、こたつを買うためにもあと一年と4ヶ月程度、駆け抜けようと思う。
12月もニート確定
復職ゴーサイン出ませんでした。
薄々こうなることは自覚していた。
なにせお昼だけで飲む薬が7錠もあるのである。
仮に主治医が「会社行ってもいいよ」と言ったところで、その後の産業医面談で引っかかること間違いなしなのである。
そんなわけで、半ば諦め気味に医者に行ってきたのだが、やはり目の前で「ん〜復職無理ですね」と言われてしまうと心にくるものがある。
いつになったら社会復帰できるのだろう。
傷病手当は12月までしか出ない。
そのあとは無給だ。無給で人は生きていけないのである。
なんとしてでも1月には復帰したい。
しかし、あと1ヶ月で劇的に病状が改善されることはないのである。
これは非常に困った事態だ。
再来年になれば、父親と二人暮らしができるので、仕事を辞めて親の脛かじりながら生きるつもりだが、再来年の春までは自力で頑張らねばならない。
すべては再来年の春にかかっているのである。
正直なところ、今の会社へはもう戻れないんじゃないかと思う。
猶予はもう数ヶ月しかない。
それまでに寛解する気がしない。
人は怖いし食べ物には毒が入っているし世界は滅びそうなのである。
うだうだ言ったところで何も変わらないので、12月もニート生活を満喫することにした。
この1ヶ月読書と文章書くことに専念することにした。
今できることはそれしかない。
ならば、今できることをしっかりやるしかないのである。
「ネコソギラジカル(上)」西尾維新
読んだ。
この本は上巻、中巻、下巻とある大作である。
なんとか1日で上巻を読み終えた自分を褒めてやりたいほどの分厚さである。
内容は、戯言シリーズ最終巻とあって、これまでの登場人物揃い踏みといったところである。
終わりも、はやく中巻か気になる終わり方であった。
今日中巻を読み始める体力はないので、中巻を読むのは明日に回すことにする。
しかし西尾維新の文章は本当に読みやすい。びっくりするほど読みやすい。
読みやすすぎて、四時間ほどで読みきってしまえた。
しかし、西尾維新の読みすぎで自分の文章が西尾維新に感化されつつあるので、そこだけは気をつけたいと思っている。
わたしは西尾維新にはなれないのだから。
「死にたい」という発作
死にたいわけじゃない。
まだまだ生きてやりたいことがたくさんある。
それでも、定期的に「死にたい」という発作がやってくるのである。
そもそもの話、わたしは人生に絶望している。
統合失調症という病ですと医者に言われた日から、ああもう治らないんだと思った記憶がある。
わたしは障害者なんだ。
統合失調症という病の障害者なんだ。
そして、寛解はすれど完治はしない病気であると。
そう知ったときから、普通の人間の輪の中に入ってなにかしようという考えは消えた。
わたしはキチガイなんだ。
薬が効いてないとき、感情のコントロールができない。
そういうときに「死にたい」がやってくる。
本当に死ぬとまずいので瀉血で済ませてるわけだが、瀉血でも二度ほど死ぬ思いをしている。
今まで措置入院にならなかったのが不思議なくらいである。
病状の改善も見られない。
最近は、食べ物に毒が入ってるのではないかという思いから誰かの手作りご飯が食べられなくなった。
不思議とお惣菜は食べられるのだが、人の手で作られた料理に手をつけるのが怖くなってしまった。
明後日は医者に行く日だが、こんなことを話してしまえばまた社会復帰が遠のいてしまう。
父親に相談したところ、そのことは言わないほうがいいと言われた。
しかし、わたしが実際に食事に毒を盛られていると思っているのは事実で、それを医者に隠してもいいのだろうかと迷う。
症状としてそういう念慮があるのだから、言うべきではないかと思う。
しかし、そんなことを医者に言えば……
わたしの社会復帰が遠のくのである。
何かしているときも、何もしていないときも、漠然と苦しいときがある。
「死にたいな」と思ってしまう。
でも実際に死にたくはないので腕に針を刺すだけの半端メンヘラになってしまっている。
これからも「死にたい」と思う度に腕に針を刺すのだろう。
滑稽すぎて笑うしかない。
生きていたい。
生きていたい。
しかし、世の中は苦しみだらけだ。
たとえいっとき症状が治まったとして、社会復帰したらまたぶり返す可能性だってある。
発作的に駅のホームから飛び降りるかもしれないし、マンションの最上階から身投げするかもしれない。
死ぬ間際に見る景色は一体どんなに綺麗なのだろうか。
このコンクリートだらけの世界で、死ぬ間際だからこそ、薄汚れたビルの壁や人々の残業によって映し出される夜景がいっとう美しく思えるのだろうか。
死ぬときは美しいものを見て死にたい。
最後に、自分がいた世界はこんなにも美しかったんだと感じて死にたい。
ここまで書いてきてなんなのだが、死にたいわけではない。
決して死にたくはない。ただ、死にたいという発作にいつまで耐えられるのかが問題なのである。
これまでに三度も自殺未遂をして、その度に人に迷惑をかけてきた。
迷惑をかける度に、わたしがいなくなればこの人たちは楽になるんだろうなあと思った。
死なねばいけないんだと、強く思った。
けれど、わたしはわがままな人間だからまだ死にたくない。
わたしの存在が他者にとってどれだけ不要な存在でも、疎ましい存在でも、わたしの生を否定する権利のある人間はいない。
たとえ誰に「死ね」と言われたところで、最終的に死ぬか死なないかの決断をするのは自分だ。
生死は常に自分が握っている。
明後日に医者へ行くが、社会復帰できるのだろうか。
ゴーサインは出るのだろうか。
数多の人が殺人犯に見えていて、食事には毒が入っていて、自分は虫ケラのような存在で、薬がないとただのキチガイで。
そんな状態で社会復帰できるのだろうか。
おそらくできない確率70%ほどだと思うので、もう少しニート期間が長引くかもしれない。
明けましておめでとうございますと同時に復帰になるかもしれない。
なんにせよ、ゴーサインを出すか否かは医者の決めることであってわたしが決めることではない。
発作的に死にたくなることもある。
むしょうに悲しくて泣いてしまう夜もある。
ちゃんと働いてお金を稼ぎたいと思う自分がいる。
でも身体が意思についていかない。
この発作があるうちは外に出るのは危険かもしれないとわたし自身感じている。
現に車と接触事故を起こしているわけなので、危ないなあと思う。
でも、それでも、働かねば人は生きていけないのである。
追っている夢もあるし、ここでくたばるわけにはいかない。
まとまりのない文章になってしまったが、とりあえず今の心境をぶちまけてみた。
わたしは愚かな虫ケラと同じだ。
でも、虫ケラは虫ケラらしく生きていこうと思っている。
いつの日か、「死にたい」と思わないで済むような自分になれたらいいなと思っている。
「新世界より(下)」貴志祐介
読み終えた。
結末はとうの昔に知っていたが、読み進めていくうちに心に湧く高揚感はなんともいえないものがある。
これだけ人を惹きつけることができる文章が書けるだなんて。
素晴らしい、すごい、尊敬する。
これで数回この本を読んだわけだが、何度読んでもおもしろい。
ゾクゾクする展開は何度読んでも楽しませてくれる。
おそらくこの本は、わたしが今まで出会って来た中で一番素晴らしいと思える本になるだろう。
今後読書をしていて、また素晴らしい一冊に出会えるかもしれないが、現状ではこの本が一番だ。
さて、「新世界より」を読み終えたので、次なる本を読もうと思っている。
図書館から借りた西尾維新の本が山積みになっているので、その消化をしようと思っている。